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新・今、そこにある映画
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旧ブログ「今、そこにある映画」が、いろいろ使い勝手が悪いので、こちらに引っ越してまいりました。よろしく。
 今、映画館で上映の映画も、どんどん、安っぽいデジタル化が進み、フィルム映画も風前の灯と化しつつありますが。
 映画は、なるべく映画館の暗闇で、フィルムで上映されるものを見たい。
 かのギャビン・ライアルの名言をもじれば、わたしは、20世紀の遺物である、フィルム映画とともに、滅びていくのだ。
 駄作も、傑作も、ともに愛す(笑)ヘンタイでございます。

 兄弟ブログ「昔の映画を見ています」もあるでよ。

(by 昔の映画)

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なぜマニュフェストは守られないか:民主党と明治維新

2012/05/20 00:16
 嘘つきは民主党の始まり。
エンエンと、自分の前の発言と、違うことを言いつづけるルーピー鳩山。自己保身のためなら、どんな強弁でもする、自己保身の権化、自称<市民運動家>クズレの菅スケ。このふたりが、極度のマイナス・ファクター、精神障害を疑われるほどの異常者だったので、たとえゼロであっても、高評価の野ダメ。
 ダメ男の無能な凡人ながら、少なくとも精神は正常の範囲内、ということで、とりあえず評価されるって、どんだけなんだ、民主党。さらに典型的悪徳政治家の、政局屋、永田町不動産の、小沢。
 最低と最悪と問題外と最凶と無能とカッコつけ。民主党には、これしか、いない。前原だけでなく、全員が言うだけ番長。

 結局、民主党のマニュフェストは、なんだったんだ、と。
 マニュフェストに書かれていることは、いっこう実行せず、書かれていないことばかり、実行するかの、印象もある。
 これには、実は前例がある。維新の志士。来るべき明治維新へのマニュフェストが<尊皇攘夷>。天皇を尊し奉り、外国勢力を排除する。尊皇の部分は守られたが、いざ明治政権を樹立すると、外国と次々(屈辱的な不平等)条約を結び、開国する、現実路線。リアルな対応とはいえ、これじゃあ「錦の御旗」が泣くってもんだぜ?

 ひでーじゃないか、と與那覇潤はいう。この明治維新のマニュフェスト違反は、どう説明するんだと。しかも、だれも、この違反をモンダイにしていないじゃないかと。

 簡単に説明できます。
 政権交代を目指した民主党。体制打破を目指した幕末維新の志士。
 現体制(徳川幕府なり自民党政権なり)を、打倒したいとなったら、それを全否定しなければならない。とにかく、全否定、今の体制じゃ、ダメなんだ、と。
 徳川幕府(自民党政権)のあの政策はダメだけれど、この政策はいい、なんて、言っていたら、とっても体制打破には、及びもつかない。
 少なくとも、庶民は<ええじゃないか>の熱狂応援ダンス、踊ってくれないよ。民主党に政権交代したら、こんなに暮らしはよくなる、なんて、今から考えればいんちきシュミレーションをマスコミは発表し、アメリカと戦争したら、日本は万々歳だと、マスコミは浮かれ、そういうノリノリの<ええじゃないか>を、国民もマスコミも、踊ってくれないよ、是々非々なんて言っていたら。
 で、いざ政権にオノレがつけば、ああ、かなりの基本的部分は、徳川幕府が、自民党政権が、やっぱり現実的に妥当な政策をしていたんだなあ、と思い至り、基礎の部分は、前政権を踏襲せざるを得ないわけだ。

 で、明治政府は、かなりの犠牲を払いつつ、失敗も重ねつつ、現代日本の礎を築いては、きた。
 そして、民主党政権は、国民のみに犠牲を押し付けつつ、成功事例は一個としてなく、現代日本の基礎的部分を、着々と、破壊し続けてきているわけで。

 現政権は詐欺師、現政権打倒を模索する勢力は香具師、それが、きわめてリアルな<ええじゃないか、を踊らない心得>としたら、きわめて、さびしいことだが。
 とにかく、現体制打倒のマニフェストは、話半分。あまりに甘い話には、乗らないほうが、いい。
 大阪維新の会の「船中八策」も、とりあえず、ヤバイ。 ただし、橋下大坂市長、その発想は、きわめて「リアリスト」だ。維新の志士のように夢を語りつつ、地に足がついている。ここらへんが、今までとは違うところか? 「リアリスト」であるがゆえに、簡単に亀井静香の「夢物語」に首を突っ込まない、石原慎太郎ともども、実は注目している。

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「パッチギ」の呪い

2012/05/19 19:45
 書くべき?感想その他が、20件ほどたまっているのに(笑)(いや、だれから頼まれたわけでもないので、ぼく以外のひとには、書いても書かなくても、どうでもいいことなのですが)、そしておそらく2ちゃんあたりでは、聞き飽きた話になるのでしょうが、やはり、すごい偶然なので、書いておかざるをえない(笑)。

「パッチギ」の出演者。
 在日朝鮮人少女役の主演、沢尻エリカは、舌禍事件でホされ、スキャンダル女王に。
 彼女に恋する日本人少年役の塩谷瞬も、「二股」報道で、スキャンダル・ボーイ。
 沢尻兄役・高岡蒼甫も、韓流ネタ発言で、舌禍、妻・宮崎あおいに三くだり半。
 同じく、オダギリジョーは、ゴールデンタイムのドラマで、最低視聴率達成。今後は、主役待遇は難しい?
 そして、制作・配給のシネカノンは、本作、「フラガール」などのヒットを飛ばしながら、韓国での映画館事業に失敗して、倒産、渋谷や有楽町の映画館も、手放す(それなりに通いました。ミニシアターとしては、惜しかった)。代表は、映画プロデュース的才能はたいへんあったので、とても惜しいことだ。
 さらに、本作の主題歌「イムジン河」の加藤和彦は自殺。そもそも「イムジン河」自体が、北朝鮮側からの抗議を受けて、放送禁止。なのに、映画「パッチギ」は、あたかも、保守系(まあ、自民党側ですな)からの圧力があって、放送禁止になったかのような「捏造」描写。嘘は、いけません。
 そもそも、監督・井筒和幸は「東方見聞録」で出演者を事故死させ、公開中止、
「ガキ帝国2」で、韓国系企業ロッテリアを怒らせ、事実上の作品封印。
 まあ、作る映画作る映画がことごとくつまらなく、ぼくは彼のことを「下手の横好き」と呼んでいる。でも、「パッチギ」以降は、(やっと)それなりに面白い映画を作るようになり、(それなりに)楽しみな監督のひとりになっていたのだが。千葉を舞台にした(ちょい前の)新作も面白く(題名失念、当ブログに、確か、書いたはず)、やっと、ましな映画を作るようになっていたものを、オダギリジョーどうよう新作は、難しい状況か。
 とにかく、日本映画史上、もっとも、呪われた監督に、なっちまったからナー。

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「マスコミ辞令」としての「橋下総理」

2012/05/14 08:39
 このところ、週刊誌や、月刊誌が、<来るべき橋下総理・橋下内閣>記事を連発している。
 どう考えても、早すぎるだろ。本人たちは、国政への(実際的な)第一歩さえ、踏み出していないというのに。なんだろ、このフライング報道合戦は。
 もちろん、意図的、かつ集団的なフライングには、ちゃんとした理由があるというべきだろう。

 本来なら、今の時期、マスコミは、現在の民主党政権の体たらくを、全力で非難していなければならない。それくらいひどい政権なのだから。
 いや、民主政権への批判なら、ちゃんとしている、とマスコミはいうかもしれないが、自民党政権時代での政権批判は、こんなものじゃ、なかったはずだ。自民政権への批判が<批判の大合唱>だとすれば、今の民主政権の批判は、せいぜい<輪唱>程度だろう。
 なぜマスコミが民主党に甘いかは、考えなくても、わかる。左翼同士のお友達、かつて声をひとつにして<政権交代>を先導したマスコミとしては、民主党批判など<天に唾する行為>そのものだからだ。民主党を批判するなら、その前に、その民主党の政権交代を誘導した報道が、誤報、捏造、でっちあげであったことを、認めなければならない。
 そんなことは、口がクサっても、マスコミには、できまい。ましてや、左翼同士の連帯という面もある。

 月刊V誌は、表紙に大々的に橋下待望論的な見出しをつけ、しかし、本文では、ほとんどの論者が橋下を批判している。まるで香具師の、いんちき口上そのものか。
 月刊B誌は、「橋下への公開質問状」特集。「公開質問状」というのは、公開して質問するんだから、お前には、それに応える義務があるのだ、ということだろう。で、12氏に「公開質問状」を、書かせている。いっぺんに12通もの「公開質問状」を出して、いちいち質問に答えよ、というのだ。馬鹿じゃないのか。「公開質問状」と「お気楽な感想エッセイ」を、混同しすぎているんじゃないのか。

 つまり、マスコミの考えていることは、
1 橋下は、「おれたちの仲間」日教組、労組、君が代・日の丸批判派の、つまり「おれたちマスコミ」の反日勢力の、敵である。
  批判したい。批判したい批判したい批判したい。
2 誌面の一定のページは、政治の話題で埋めるのが、俺たち、天下国家を論じる大マスコミの責務である。しかし、今の民主党政権への批判は、<天に唾する、仲間攻撃である>から、最小に押さえたい。
 だが、政権批判を最小に抑えると、当然誌面に穴が開く。それを埋める話題を、見つけねば。
3 1プラス2の結果が、やたらと目障りな橋下記事で穴を埋めようという結論に、たどり着く。
4 しかし、橋下は、俺たち左翼には理解できないことだが「なぜか」カリスマ的人気がある。
5 橋下批判をあまりにストレートにすれば、売り上げの点が問題だ。
6 そうだ、橋下内閣、橋下総理、実現か、と、持ち上げたフリで、橋下人気に便乗しよう。
7 どうせ、今、持ち上げたって、橋下が、現実に総理になるかならないかなんて、だいぶ先だろう。第一、まだ、公式に、国政への第一歩すら、踏み出してないのだから。
8 それに、次の選挙ヤったら、「おれたちの反日仲間」民主党は、あまり票を取れないだろう。しかし、自民党政権にだけは、戻したくない。自民に戻したくなくても、この民主党の体たらく。なら、民主党に変わって、自民の票数を抑えられる可能性のあるのは、橋下維新の会か。
 とりあえず、今のうちは、橋下を期待するフリでもして(内実は批判したい批判したい批判したい)<反自民票としての、橋下>を、持ち上げておこう。でも、実際は、批判したいんだけどね。じゃあ、見出しで橋下総理実現か?、と持ち上げといて、実際は橋下批判の本文で、ごまかしちゃえ。
9 どうせ、今「持ち上げたって」実際の選挙が迫れば、また、スキャンダルでも、でっちあげよう、ということも、できるからな。

 左翼諸君は<数の暴力>で、世論を誤誘導することは出来ても、なんせ、センスがない。「ハシズム」なる、ハシにもボウにもかからない、センスのない言葉をしきりに使うも、一般人には見向きもされない。
 1、2回使って、だれもぴくんともしなかったら、さっさとひっひめればよいものを、エンエン使い続ける。センスが、ないからねー。

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原田真人「わが母の記」

2012/05/10 23:41
 なかなかの良作。おそらく今年度の日本アカデミー賞には、かなりのノミネートが期待されるのではないか。  
 作品賞は当然ながら、監督、脚本、撮影のほか、主演女優賞に樹木希林、主演男優賞に役所広司、助演女優賞に宮崎あおいプラス南果歩?、あと、ほかの映画が貧弱ならキムラ緑子もありか? そこまでは、無理か。
 今時には、かなり珍しいくらい、しっかりとした良作。俳優諸氏の演技は、素晴らしい。特に、樹木希林は絶品。だが、しかし。
 冒頭いきなりのファースト・ショットで、ずっこけた。小津安二郎「浮草」の超有名シーンの完コピ。ファースト・ショットは大事だろう。いいのか、完コピで。
 このほか、樹木の娘/役所の妹の、南果歩が、スカートの奥にウチワで風を送る。これは小津安二郎「東京物語」の杉村春子の再現なんだが。まだまだ<美人女優のはしくれ>の色香を残す南で、やっても、意味ないアクションだろう。この映画での、杉村春子的立ち位置・役どころは、キムラ緑子や樹木希林なんだから、やるなら南果歩より、そちらだろう。
 そういう、監督が信奉する過去有名映画への目配せ(とっても恥ずかしい行為、しかもよりによって超有名シーンばかり)なんか、やらなくても、充分、面白い映画を作りうる原田なのに、残念だ。
 役所の娘・宮崎あおいが、なんと前半は中学生役。だんだん高校大学、社会人と成長していくのだが、特殊児童女優・宮崎あおいとしては、バツイチの既婚者なのに、まだまだ中学生の制服の役が、ぎりぎりでオーケーなのだ。制服でも高校じゃない、中学でもオーケー。すごいなあ。ふつう、そんなことしたら、突っ込みの嵐だろう? 突っ込み、たぶん、ないと思う。
 この映画の美点は、役所主演の母モノと見せて、じつは、妹たち(キムラ、南)、娘たち(菊池亜希子、宮崎)、妻、秘書、お手伝いさんたちの、女たちのドラマでもあるところだ。
 役所は、女系家族の上に乗った、みこしに、過ぎない。
 宮崎あおいたちがトランプ遊びをしている。奥のソファに樹木希林がひとり、いる。なにやら、動いている。こういう二ヶ所同時の動きが、同一ショット内に並行描写されるショットが何ヶ所もあり、見ていてすごく気持ちいい。ああ、いかにも原田真人らしい、楽しいショット。
 こんな原田が、「オレが決めた、このポイントだけ、見ろ」という小津を、模倣する理由がわからない。
 面白いし、良質なんだが、なんだか、天然モノというより、養殖モノという気がしてならない。
 いずれにしても、俳優たちは、グッド。みな、愛らしい。

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「女ドラゴンと怒りの未亡人軍団」

2012/05/10 20:21
 ジャッキー・チェン製作の、製作費5000万元(6.3億円)の、メイド・イン・チャイナ大作?戦争映画。
 今から千年前の宋朝期、辺境の西夏王朝から侵略を受け()、有力武族集団・楊家が先陣を切るが、部隊は全滅。
 かくて楊家には、大量の戦争未亡人が発生。宋朝皇帝から、朝敵追捕リベンジ戦の命を受け、1万の兵をもって、9万の敵兵に対峙する宋朝軍先遣隊を、楊家未亡人アマゾネス軍団が、率いる!
 数的には圧倒的多数の男兵士は、刺身のツマ状態で、<辺境の蛮族>と、対戦する未亡人武道家たちのアクション、アクションが、大展開の、B級娯楽編。バカバカしくて、よい。
 この未亡人軍団、セシリア・チャンをはじめ、アクションができる美女を、大量投入。B級アクションとして、豪華であり、面白い。
 ただ、女性たちのアクションは、迫力・スピード感を出すため、ほとんどのショットで、早回し。
 さらに、美女アマゾネスの黄色いトキの声、絶叫、阿鼻叫喚、多数、音楽も色彩も過剰で、演出もマンガでせわしなさMAX、つまり全編、濃い濃い。こってり油ギッシュな中華料理さながらの、重厚感。キーキーギャーギャー胃にもたれるほどの、満腹感。濃すぎるぞ。
 ギャーギャー黄色い中国語発生の女声を聞いているだけで、お耳もうんざり気味だ。
 しかし、映画会社が喧伝するほど、カルトではない。ほどほどのBC級映画。エロ度も、限りなくゼロ。ああ、中国映画に、それを期待してはいかんか。
 いかにも、ジャッキー・チェン映画(ただし製作担当)らしく、この日本公開ヴァージョンでは、ラスト・クレジットに、NGショットが流れるおなじみの展開。ただ、ジャッキーのガチンコ・アクションではなく、ヒモで吊って、空中を飛遊するのが、ネタバレされる。ロープはCGで消したのだろう。ジャッキーの痛々しいNGとは似ても似つかぬNG集に、意味もなし。

 なお、銀座シネパトは、ゴールデン・ウィーク中の特定回に、みうらじゅんとかリリー・フランキーとかを使って、オーディオ・コメンタリー付きの上映を行ったらしい。DVD特典ではおなじみの、オーコメ付きは、劇場としては日本初の試みとか。まあ、明らかなリピーター狙いか(リピーターは未亡人割引と称して、1000円に)。それなら、中国語の黄色い声を聞かなくて済む、日本語吹き替え付きのDVDのほうが、いいんじゃね?つうハナシだよね。

(注)とチラシには書いてあるが、中国史は、常に辺境の異民族からの、<武力進出>を受け、たとえばモンゴルから、女真族/満州族から、そしてわが日本からも二度も、<易姓革命>に挑戦されている。
 モンゴルの<中央(=中原)進出>は元朝として、満州族の<中央進出>は清朝として結実したが、周辺異民族が中原に<軍事進出>することは、周辺異民族としての、義務?であり権利だった。
 日本は二度とも失敗したから<侵略>の汚名を着ているが、本来は<侵略>ではなくて、<易姓革命の失敗>である。<易姓革命>に挑戦しなかった周辺異民族は、半万年属国だった朝鮮くらいのものだろうか。
 したがって、秀吉の、大日本帝国軍の、二度にわたる<中国軍事進出>は、当たり前の、中国周辺異民族にとっての、<正当・正常な政治的チャレンジ>に、過ぎない。失敗したから、モンダイにされるのであって。
 なお、個人的には、日本は中華圏からとっくに、離脱しているので、やる必要はなかったものだとは思うが。日本人に必要な中華は、料理だけで、よろしい。

 本作でセシリア・チャンは、夫に「お国のために、家を犠牲にするあなたは、立派」と二度いうのが、チャンチャラおかしい。お国のために一族を犠牲にするどころか、国より一族の繁栄を優先させるシステムを作ったのが、まさしく宋朝ではないか(例によって、與那覇潤の著書「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」による)。
 まつろわぬ民である、地方豪族(山賊ともいう)セシリア・チャンの実家一族や、なぜか宋朝に助力奉仕する、地方の少数民族たち。まるで、<中国の犬>ジャキー・チェン・プロデューサーは、モンゴルもチベットも、グダグダいってないで、さっさと中共王朝に、素直に帰順しなさい、というところか。ジャッキー・チェンも、トコトン、中国の代弁者に成り下がったものよのう。ああ、それは、民主党のメンメンも、そうであった野田。

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橋下維新の会 vs 明治維新

2012/04/30 22:19
 日本の歴代の、改革を目指した政治的ムーヴメント、つまり、明治維新、昭和維新、全共闘運動、小泉構造改革ブーム、民主党政権交代ブーム、そして橋下大阪維新の会ブームには、ある共通した動きがあるという。

 與那覇潤「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」という本が、なかなか刺激的な本であり、なおかつバカ本であるというお話その4
 與那覇潤は、本書で特に明治維新を取り上げています。昭和維新ほかは、単なる明治維新の亜流ですね。日本では、政治改革を目指すと、必ず維新の志士を気取る。橋下維新の会など、その典型ですな。
以下、同書の要約という形で紹介します。

 徳川末期のアナーキーな雰囲気の火付け役となった大塩平八郎は陽明学者、幕末に尊皇攘夷思想の旗振り役となった吉田松陰は、陽明学に心酔。
 がちがちの社会構造のなかで窒息しかけていた不平分子の憂さ晴らし的爆発から、明治維新は始まったのですが、その起爆剤となったのが、中国由来の儒教、特に陽明学。しかし、大方の人間は陽明学の研究者や心酔者でもない。「気分としての陽明学」が「時代のエートス(気分、気風)」と、なった結果だというのです。
 つまり「気分としての陽明学」とは、平たく言えば「動機オーライ主義」。
「終わりよければすべてよし」の「結果オーライ」の反対で、「はじめよければあとはどうなってもよし」が「動機オーライ主義」。
 純粋にピュアな気持ちで考えて「今の世の中は間違っている! オレ様の考えが正しいのだ!」と、既存の概念、法、社会構造をすべて否定し、一切を考慮することなく突っ走り、動機がピュアなんだから、オレ様の思いは、必ず実現するはずだ、いや、実現しなければならない、と。
 結果を一切考慮することなく、突っ走り、結果は必ずついてくるはずだ、と根拠なく確信する。もし万が一、結果が出なくても、それはこのオレ様の魂の叫びに反応しない、社会の奴らの不純さ、鈍感さのせいであって、オレのせいではないのだ! と。
 つまり「気分としての陽明学」とは、平たく言えば「パンクロッカーの魂からの叫び」。
 こういう人たちは、結果ではなく、動機重視で突き進むから、一切の妥協なしにどこまでも突き進む。また、「志半ばで倒れた同志」への心情的連帯感。坂本龍馬しかり、尾崎豊しかり。

 そういう、幕末の維新の志士的パンクロッカーたち、純心ピュアな動機オーライ主義、金のないやつぁ俺ンとこへ来い、俺もないけど心配するな、見ろよ、青いそら、白い雲、みたいな。
 といったような、坂本龍馬やら、そのミニチュア版の小泉純一郎、橋下徹らに、庶民は、喝采を送り、じゃあ、ぼくたち庶民はそれに対して、どう対応するかというと。
 そう、庶民は「ええじゃないか」を踊るのです。それが<選ばれし志士たち>と、庶民たちの役割分担。
 映画好きらしい與那覇潤の、本書の説にもっともふさわしいマキノ雅弘を、付け焼刃の、お勉強でしか映画を見ない與那覇潤は、なぜか、まったく言及しないのですが、「江戸時代化」した高倉健や、バンツマや、藤純子や、鶴田浩二のために、「ええじゃないか」を踊る「取り巻きたち」というのが、庶民の役割なのです。

 そして、與那覇潤が、本書でネグっているのは、ここをネグっていては、お里が知れるだろうというのは、「結果オーライ主義」、つまり「どんな薄汚れた手を使っても、金を握り、一族として生き延びてやるぞ」という「中国化」の、対極にあるのが「動機オーライ主義」。
この「動機オーライ主義」の幕末の志士たちが、結果として成功し、明治維新という「結果オーライ」の「中国化された明治」を作り上げたという皮肉。
 動機がピュアであるからには、結果(金とか地位とか)なんて、考えに入っちゃいねーぜ、という人たちをこそ、限りなく愛惜する人たち。いっぽう、どんなに汚い手を使っても、金や地位をもぎ取るぜ、という「中国化された」人たち。ここの対立をネグっている点に、與那覇潤の、詰めの甘さがあるというのは、ひがめか。

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民主党が日本に三年殺しを仕掛ける

2012/04/15 00:26
 日本を貶める(落としめる)ことなら、なんでもする民主党が、とうとう、日本に対して「三年殺し」を、仕掛けた(苦笑)。 
 消費税増税案。
 2014年4月に8%に、そして2015年10月に10%に上げる案だ。
 本当に必要なら、さっさと上げるが、よろしい。なのに、ナニ、この、生殺しのような、モラトリアムは。しかも、日本経済の成長率が「ある程度」上向かない場合は、増税を、延期?すると言うエクスキューズも、入った。妥協の産物。しかし、これは、実は妥協案以上の意味を持つのでは、ないか。
 どんどん生産性を挙げて、収益を高めたい、と企業は、ふつう、そう考える。個人も、がんばって、仕事をして、給料上げて、生活のランクを上げたいかなー、と考える(かつての、高度成長期では、当たり前だった考え)。
 しかし、そういう、個々の企業努力、個人のがんばりで、生産性を上げたら、生活ランク上げる以前に、消費税が上がってしまう。 
 がんばればがんばるほど、負担が増えてしまう。
 努力したら、努力した分だけ、税が上がってしまう。
 じゃあ、努力するの、やめましょう、ということにならないか。
 少なくともこの、これからの三年前後は、努力したら、努力したブンだけ、負担が増える状況だ。じゃあ、止めた、と、モラルハザードということになるだろう?ふつうは。
 日本の力をそぐことに、ハンパない情熱を燃やすなあ、民主党。
 どうせ上がるものなら(その前に政治家・官僚・既得権益層・公務員の、いわゆる親方日の丸依存層の、メタボな贅肉体質を、絞ることが前提だが)モラトリアムを設けずに、すぐさま上げればよいものを。下手に先延ばしすることで、日本全体のモラルハザードを招くことは必定だろう。
 日本の国力を、如何に殺ぐか、が最大の目標であると思しい民主党諸君には、まさに渡りに舟だろうが・・・・。

 脱原発状況に伴う電力不足の果ての、日本社会不安定化。
 中国・北朝鮮・韓国・ロシアなどの、日本を取り囲む<遅れてきた帝国主義国>、このならず者国家らの、日本に対する圧は、今後ますます深まり、民主党は土下座外交ばかりを繰り返す。鳩山や菅など、顔からして<ネズミ男>そのものの、卑屈さ。その卑屈さを、友愛だ、と偽装する手合いばかりの、外交連戦連敗、が招く日本社会不安定化。
 その上に企業努力を否定するかのような、がんばればがんばるブンだけ増税しまっせ、という負のスパイラル。その日本社会不安定化。
 かつての民主党の選挙コピーは、「日本をあきらめない」。でも、これ誤植ね。 
 ほんとうは、「日本をあきらめな」、それが民主党だ。

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坂本龍馬 vs 伊藤博文

2012/04/12 08:09
 與那覇潤「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」という本が、なかなか刺激的な本であり、なおかつバカ本であるというお話その3
 著者によれば、平安末期以降の日本人が、延々拒否してきた「近世中国」のシステムを、いや、これは「西洋近代」のグローバル・スタンダードですから、とごまかしごまかし、日本に導入したのが「明治維新」だと。
 だから、日本人は、<中国化>した、自由競争と自己責任の明治社会に疲れ果てて、実のところ明治維新という社会改革を、気持ちの底では、素直に喜んでいないのではないか、と。
 ここまでは、まあ、わかる。しかし、「日本人は本当は明治維新を嫌悪しているのだ」ということの、次に著者があげる例証があまりにバカすぎる(笑)。著者は言う。以下、引用。

 「維新の英雄」の一番人気が、戦前は西郷隆盛、戦後は坂本龍馬という、ともに「志半ばで倒れた人」であり、真に明治国家の中枢を担った伊藤博文や山縣有朋でないことは、まさに示唆的でしょう。
 こういう「本当は心のどこかで嫌いな明治維新」を、「でも、それは西洋化だから、中国人や朝鮮人にはできなかったすごいことだから」という「他人に対する見栄」だけで無理やり好きになろうと自己暗示をかけ続けるのは、危険な状態です。

 バカな與那覇潤は、どんどん妄想を広げていきます。まず、日本人は、そんなに明治維新が嫌いか。次に、どう見ても「明治維新への評価」にはさほど関係なさそうな、嫌中、嫌韓感情まで持ち出して、「他人に対する見栄」って、どういうことですか、まさか、日本人が中国人や韓国人に対して、見栄を張っているということですか。そういう文脈ですよね。かってに「日本人の心理」なんていうものを大雑把に妄想しておいて、あげくのはてに、それを「危険な状態」とまで言う。
 與那覇潤、お前は歴史学者か、香山リカ並みの精神科医か。

 そもそも、この話の前提となる、「日本人は実は明治維新が好きじゃないのは、伊藤、山縣より、龍馬、西郷が好きなことでも、わかるでしょ」というのが、あまりに頓珍漢すぎて(苦笑)。
 「志半ばで倒れた人」を「悲劇のヒーロー」として愛惜するのは、日本人の悲劇好み、判官びいきというもので、明治維新の功罪、好き嫌いとは、何の関係も、ない。
 だいいち、龍馬、西郷のキャラは、限りなく立っているが、伊藤、ましてや山縣、キャラ立ってないでしょ。かつての「人気のセ、実力のパ」じゃないけど、人気者と「実力者」が、必ず一致するわけではないので。
 龍馬、西郷らは、革命第一世代として、来るべき明治維新を、文字通り、命をかけて、準備し、その成功の果実をなんら手にしないまま(西郷は、ちょっとは、果実の匂いくらいは嗅いだかな)、まさに「志半ばで倒れた」。
 伊藤など、革命期(維新準備期)には、単なる下っ端、うるさ型の上の世代がほぼいなくなったあとに、維新後、高位高官の栄誉をいちばんに手にし、蓄「妾」の限りを尽くしたと、言われている。革命第二世代が、成功の果実を、俗っぽく言えば、龍馬、西郷らの葬式で、受付をしながら、こっそり香典泥棒したようなもの、とは、さすがに、ちと言い過ぎですがね。
 多くの無名草莽の維新志士とともに、亡くなった龍馬、そのあとを追ったかの、今の明治政府では、彼ら死んだ志士たちに申し訳ないという思いの西郷、これに対し、数多くの志士たちの犠牲の元に、栄耀栄華を極め(なんてったって初代日本国総理ですからね)繰り返しますが、数多くの蓄妾伝説の伊藤、どっちが「庶民人気」があるのか、わかりすぎるくらいの差、でしょう。

 でも、それと「明治維新の好き嫌い」とは、繰り返しますが、「何の関係もない」。
 もちろん著者の卓説どおり、「中国化された明治維新」が、嫌いで、自由競争社会の成功者、伊藤や山縣に対して、庶民が、嫌悪感を持つのは、当然ではありますけれどね。それは、われわれが、今の鳩山、菅、小沢が好きか嫌いか、と考えてみれば明らか。って、この三人を持ち出しては、伊藤らに失礼か(笑)。

 伊藤も結局、暗殺されたりして、まあ非業の死なのですが、龍馬と比べるべくもなく、あまり日本人の同情は、呼ばないのは、まあ、人気が、ないんでしょうね。
 いい目をたくさん見たあとの暗殺であり、よりによって、なんだかヨクワカラナイ朝鮮人テロリストもどきに、つい、思わず殺されちゃいました、というお間抜け感ともセットになって、初代日本国総理の暗殺なのに、なんだか「日韓史」の事項の扱い(つまり、日本史本誌ではない、ローカル史)、どうも他人事で、メインの「日本史」では、脚注扱い、と言う印象があるのですが。
 日本史いちばんの人気キャラ・龍馬と、暗殺されてもいっこうに同情されない不人気キャラ・伊藤を同列に論じること自体、與那覇潤の頓珍漢ではないか。
 ちなみに、この不人気キャラを「暗殺」した頓珍漢男が、韓国では「韓国史上一番人気」なのが、苦笑するところで。今で言えば、鳩山や菅が韓国に行って、通り魔に殺されるようなものか。その通り魔が、一夜で韓国マスコミ界でヒーローになる感じ? いや、相手が鳩山や菅なら、日本でもヒーロー扱いか(笑)。
 さらに蛇足だが、半島人たちは、この暗殺から程なくして、うるさ型の革命第一世代、およびその家族一族をも、ばんばん粛清しまくって、葬式さえ出さないまま、その香典を全部盗んでいった男を、「狩猟様」、もとい「首領様」と、呼ぶようになる。
 與那覇潤の、明治維新考察、目をムクような珍説もあるが、目からウロコの説もあり、続く、予定。

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椿三十郎 vs 桑畑三十郎

2012/04/08 09:58
 與那覇潤「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」という本が、なかなか刺激的な本であり、なおかつバカ本であるというお話その2
 本書によれば、中国の宋朝(紀元960年成立)が、世界に先駆けて作り上げた社会システム、自由競争、自己責任の、うまく行けば大金持ち、ダメなら没落か餓死、不安定だが活力ある社会、これで一貫して中国は動いてきた(もちろん例外もあり、明朝と、毛沢東の共産中国時代)。
 これを、本書では、仮に<中国化>と名づける。
 そして、この<中国化>は、のちにヨーロッパ、およびアメリカにも、及ぶ。
 西洋信仰の強い、なおかつ、中国など、遅れた後進国だと、長いあいだ馬鹿にしていた、日本人が<西洋的><欧米的><欧米が作った近代化>と思っている、新自由主義、個人主義、自己責任の競争化社会は、実は中国が最初に作り上げたシステムだから、たとえば<明治維新>は、日本が<西洋化>したのではなくて、実は<中国化>したというのが、事の真相だ、というのが、ここ数十年の<大学レベルのプロの日本史学者>のあいだでは、常識化しつつあること、なのだそうだ。

 つまり、中国と、中国フォロワーの欧米のほうが、グローバルな、世界基準の下で、この一千年間の歴史を共有してきたわけで。これに対して日本のみが<独自の戦い>、世界には通用しない、日本だけでのみ通用する<ガラパゴス・ケータイ>的社会システムを、発達させてきた、と。

 日本人は、平安末期以降、延々と、その<中国化>を、拒否してきた。そして、中国的社会システムとは真逆な、士農工商など極度に固定した身分社会(百姓の家に生まれたら、末代まで百姓、大名家に生まれたら、どんなボンクラでも、一応は大名に)。
 身分は生まれた時点で固定しているので、究極のアンチ<自由競争>社会。つまり、ほどほどに社会の掟に従っていれば、自由競争の末に勝ち組の大金持ちになるチャンスはない代わり、没落して負け組になる可能性は、ひくい。自由はないが、社会的には安定した、封建制身分社会。
 日本の社会主義の草分け・幸徳秋水が明治末に喝破した、「社会主義は江戸時代に似ている」。これが、正しかったのだ、と。これを<中国化>に対して、仮に<江戸時代化>と、呼ぶ。

 え?タイトルの「椿三十郎 vs 桑畑三十郎」の話は、いつ、出てくるのって?
 もう、しばらく、お待ちを。黒沢映画の話を、するには、まず明治維新とは、なんだったのか、というところから。
 著者によれば、平安末期以降の日本人が、延々拒否してきた「近世中国」のシステムを、いや、これは「西洋近代」のグローバル・スタンダードですから、とごまかしごまかし、日本に導入したのが「明治維新」だと。
 だから、日本人は、<中国化>した、自由競争と自己責任の明治社会に疲れ果てて、実のところ明治維新という社会改革を、気持ちの底では、素直に喜んでいないのではないか、と。
 著者言うところの「あの素晴らしい江戸時代をもう一度」という日本人の思いは、日本の近代の歴史に常に顕在しており、昭和中期の「軍国主義」≒「軍部による社会主義」≒「再江戸時代化」による「中国侵略」こそ、反<中国化>の、必然的表れなのかもしれない。

 というところで、著者は、黒沢映画を、持ち出してくる(笑)。
 黒沢明「用心棒」61年・東宝の、舞台となる宿場町は、規制緩和と自由競争によって始まった共食い同然の生き馬の目を抜くような社会の典型として、設定されている、と。たしかに。
 「用心棒」が、鉱山町の労使紛争を描くダシール・ハメット「血の収穫」の事実上の翻案であり、さらにマフィアの抗争や、頻発するストライキで名高い国イタリアで、セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」にリメイクされる。幕末以降に日本が巻き込まれるグローバリズムの暗部、実力競争社会がはらむ無機質さや残酷さこそが、「血の収穫」「用心棒」「荒野の用心棒」に共通する主題である、と。
 なお「用心棒」が、幕末期という設定は、敵役・仲代達矢の、首に巻いたイタリア製マフラーと、飛び道具のピストルでも、明らか、なのだそうで。
 いっぽう、「用心棒」のヒットを受けて作られた黒沢明「椿三十郎」62年・東宝の、江戸時代盛期の設定と思しい、お家騒動を描く。江戸末期「用心棒」の殺伐とした<中国化>社会とは正反対の、ほのぼのとしたユーモアあふれる<江戸時代化>社会が、そこには、ある。
 なるほど。

 で、「用心棒」=幕末=明治維新直前=殺伐、「椿三十郎」=江戸時代盛期=のほほん、の比較から、著者は、こう結論付ける。「日本人の中にある江戸への郷愁と明治への嫌悪は、一目瞭然のように思われます」! 馬鹿じゃないの。郷愁と嫌悪の例証が、黒沢明「映画」だなんて。
 殺伐とした映画も、のほほんとした映画も、どちらも、映画の一趣向なんであってさ。殺伐したフンイキ・社会を描いた映画が、もし嫌悪の対象であるということなら、そんな映画は一本もヒットしないはずだろう。事実「用心棒」をはじめとして、「殺伐」としたアクション映画は、何百本と、ヒットしている。
 「殺伐とした」現実社会は、たしかに嫌悪されるだろうが、「殺伐とした」アクション映画は、みんなから、大いに好かれている。現実と映画は、違うのよ。
 そもそも、幕末・明治維新を描いた映画は、日本人が大好きな映画ジャンルの、ひとつなんだから、「映画」から「明治への嫌悪」を読み取れるのは、いたって数が少ないはずなんだよ。今井正「ああ野麦峠」などの、限られた左翼映画くらいじゃないの。ましてや「用心棒」から「明治への嫌悪」を読み取るのは、かなり、無理スジで。
 むしろ、中国化された社会=明治維新の暗黒部を描いた映画は、マキノ雅弘に代表される、東映仁侠映画の明治モノ多数にこそ、顕著であろう。そこでは、政府の悪徳官僚・政治家とウラで結託した、近代やくざたち、たとえば天津敏(まさしく、中国由来の、芸名! 中国地名のテンシンが、アマツと日本化)が、実力競争社会の暴力で、「旧弊」で「江戸時代」的な高倉健たちを、苦しめる。そして最後は、必ず「江戸時代」が「中国化した明治」に、勝つ。
 これこそ、日本の庶民たちの「明治嫌悪」の徹底的な映画的「例証」ではないか。
 與那覇潤、詰めが甘いな(笑)。

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與那覇潤「中国化する日本/日中「文明の衝突」一千年史」

2012/04/07 00:59
 ナドレックさんの<映画のブログ>というのが刺激的で面白く、時々のぞいているのだが、そこで数回にわたって紹介・批評されている本が面白そうで、読んでみた(文芸春秋刊)。
 著者の與那覇潤は、日本近現代史の学者で「帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史」(未読)などの著作があるという。

【<映画のブログ>では、以下の関連批評記事があります。】
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 ジャパニメーションの起源は中国なの?
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 どこにいる『風の谷のナウシカ』?
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 半世紀遅れた『天空の城ラピュタ』?
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 儒教vs『ナバロンの要塞』
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』 日米映画のアジェンダの違い

 これを見てわかるように、歴史学の入門書ではあるが、かなり映画にも言及している。ジョン・フォード「わが谷は緑なりき」、深作欣二「仁義なき戦い」、ジェームズ・キャメロン「アバター」、三池崇史「一命」まで、約40本の映画が参照されている、映画ファンにやさしい(笑)歴史学入門書なのだ。
 昨年11月に刊行され、ぼくが買い求めたのは、5刷り目、それなりに売れているようだ。

 著者は、ここ数十年間のプロの歴史学者の間では常識になっているが、一般の歴史ファンには知られていない、最新の学説を、わかり易く紹介している。やはりそういうものにうといぼくから見ると、目からうろこの説ばかりだ。
 たとえば、
◎世界で最初に「近世」に入った地域は、江戸時代の日本でも、ルネッサンス期のイタリアでもなく、宋朝の中国である。
◎宋朝は、唐までの王朝とまったく違ったシステムを導入した、「画期的」な王朝であり、その宋で導入された社会のシステムが、中国でも、そして(日本以外の)全世界でも、現在に至るまで続いている。
◎「明治維新」とは、日本の「西洋化」ではなくて、実は「中国化」であった。
◎オバマのアカデミー平和賞受賞は、アメリカや、ヨーロッパ社会が「中国化」した結果である。
◎日本の江戸時代まで続いた、封建制身分制度を、中国は600年前に廃止していた。
◎社会主義は江戸時代に似ている。
◎「戦前の暗い時代」とは、選挙結果を見れば一貫して社会主義政党が伸びていった時代である。
◎わかりやすく一言で言うと、大学レベルのプロの日本史では「軍部がやる社会主義」のことを「軍国主義」という。
◎「貧困は社会の責任」と主張する社会主義者は「進歩的」と思われがちだが、共産党などの例外を除くと、戦時中はこういう社会主義者が主に軍部と手を握って、江戸時代のような「反動的」な体制を作るのに貢献してしまった。
◎高校までのあらゆる教科書が教えているのとは逆に、明治維新は結局失敗して、昭和維新は成功した。もしくは、成功してしまった。
◎「あの戦争」を通じて、日本は世界に冠たる史上最高の社会主義国家を作った。
◎ここ30年ほどの日本近代史研究では、いわゆる、自由民権運動もまた、明治政府の自由競争政策への不満と、江戸時代の不自由だが安定した社会への回帰願望によって支えられていた。エトセトラエトセトラ。

 えっ、自由民権運動って、議会制民主主義など、西洋化近代化を目指した運動でなく、復古主義だったの?と、驚く。
 これだけ取り出すと、なんだかトンデモ学説のように聞こえますが、よく読めば、なかなか説得力があるのですね。
 著者は、ありとあらゆる歴史書を読み、パッチワークし、一般人の知らない「最近の学説」を紹介する。 それは、いいのですが、そこに「趣味の?映画鑑賞」が押し入り、歴史の裏づけを黒沢明映画、木下恵介映画、「三丁目の夕日」などを通して、検証する。これが、映画モノとしては、いただけない。ホンっトに、アナだらけ。映画、舐めんなよ(笑)。
 宮崎駿関係は、上記ナドレックさん<映画のブログ>に、詳しく、批評されているので、そちらをお読みください。
 では、ぼくはそれ以外の話から、進めよう。
 まず、著者は、黒沢明「用心棒」は<幕末以降に日本社会も巻き込まれることになったグローバリズムの暗部>を主題とし<明治への嫌悪>をあおり、同じく黒沢明「椿三十郎」は、<江戸への郷愁>を表わしているという。この、シリーズモノに、そんな違いがあるの?(笑)ということで、つづく。
 長くなったので、また、後日。

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「ドライヴ」

2012/04/06 01:11
 日本では、本作と「スーパー・チューズデー 正義を売った日」、主演作が2本同時に公開中の、ライアン・ゴズリングが、孤高のヒーローを演じる快作。
 本職は、ちっぽけな自動車修理工場の、修理員、で、ただひとりの同僚というか、雇い主が、もともと映画のスタントマンだったためか、映画でのカー・スタントのアルバイト、さらには、ひとりで、強盗の逃走用アシスト・ドライヴァー。
 クールなハードボイルド快作。その主人公のゴズリング、今までのアクションものヒーローと違って、おとなしめの、一見草食系ヤサ男なのは、時代か。いやそもそも「ザ・ドライバー」ライアン・オニールも、あの時代の草食系風貌だった。
 常に座席に固定されているドライヴァー、フロントガラスを通して、外界に視線を固定する。それよりは、はるかに消極的だが、椅子に固定されて、眼前のスクリーンを注視する映画ファンは、ある意味では、似ているのかも(笑)。まあ、ドライヴの主体と客体という、大いなる違いはあるのだけれども。
 この草食系ヒーローと、「疾走する純愛」なるキャッチ・コピーにだまされる?と、結構暴力描写連発、えぐいスプラッタ(まあ、見慣れている映画ファンには、たいしたことないんだけどね)、見慣れていない女子は、終映後、キャーキャー言っておりましたな。
 質屋?に強盗に入る。盗んだ金は、ちっぽけな質屋には不相応な100万ドル。実は、マフィアの隠し金。マフィアの金なんて盗んだら、関係者は皆殺しだ、かくて、悪党たちの内ゲバが始まる。殺される前に、殺せ、と。
 いやあ、こんな映画、今までに何本見たろう。紋切り型の極致。「ザ・ドライバー」だったり、何本ものジャンル映画の傑作を、あるいは凡作を、お勉強して、なぞる。ぼくは思いつかなかったが「シェーン」との近親性も言われている。人妻とその子供への、無私の奉仕こそが、アクションを起動させる。
 ほどほどの才能のある映画作家が、<スタイリッシュ>で、<クール>な映画を作る。そうすると、ありとあらゆるいにしえの映画を参照しているから、どのシーンもどのシーンも、似てくる。それは、仕方ない。そのなかでは、面白い映画になったと思う。

 なお、本作は有楽町イトシアの、コンマい映画館で見たのだが、これがデジタル素材による上映。シネスコサイズなのだが、画面の上下が切れて、黒味がある。つまり、この映画館のシネスコ・スクリーンサイズより、若干小さく、デジタル素材の<マスクが切って>ある。
 フィルムから技術は進化している(はずの・笑)デジタル素材なのに、きっちり画面を埋められない。サイズを合わせられない。はたして技術は進化しているのか。退化しているのか。
 童顔の、泣き顔が似合うキャリー・マリガン(「私を離さないで」が印象に残る)が、薄幸の人妻役。アメリカ映画にしては、珍しく、ヤラない。そこら辺が疾走する「純愛」たるゆえんか。

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ポランスキー「おとなのけんか」

2012/04/03 03:01
 こどものけんかに、親が口を出す。そういう映画。
 公園での遊びのうちに、子供たちが、いさかい。一人の子が棒切れを振り回し、相手の子の口にぶつかり、口を切り、前歯が二本折れる。
 雑貨店主人ジョン・C・ライリーと、アフリカ問題研究家ジョディ・フォスターの夫婦が、自宅に、加害者の親夫婦を招く。
 やりて弁護士クリストフ・ヴァルツと、投資ブローカー(自称)ケイト・ウィンスレットだ。なぜケイトだけ自称という表現をしたかというと、ほかの三人には、ちゃんと職業に環する言及があるのに、彼女だけ、そういう描写がないからだが。たぶん、意図的な「区別」なのだと思う。
 二組の夫婦が、こどものけんかの、しかし、こどものけんかというには、いささか、しゃれにならない被害について、話し合う。その話し合いが、最初はおだやかに、いかにもリベラルで知的なフンイキで始まり、しかしやはり当然、自分の子の利益を最大にしたいというホンネの元に、ののしりあいになり、また、夫婦としても二組とも倦怠期にあるため、夫婦として相手の夫婦に攻撃するだけではなく、自分たち夫婦の中でも内ゲバを起こす。

 いかにもありがちな対夫婦バトル、そして夫婦内バトル。そして、時には、敵対する男同士も共感し合い、女同士も共感し合う。男として不利になるや、たちまち男たちは、スコッチを酌み交わし、知らず知らずに意気投合。女たちも、男たち共通のいい加減さに、思わず手を結ぶ。
 ああ、いかにもこじゃれた舞台劇が原作なんだろうなあ、という、構成が丸わかり。一幕ものの、四人だけの登場人物、そういう出自が透けて見える、というより、そのもので。
 見ていて、たいへん、楽しい。しかし、こういう舞台ものの映画化を見ていて、大いに楽しみつつ、いつも思うのは、ああ、だんだん「体温が低下」していくなあ、ということ。
 こういう、かっきりした、しかし「狭量」?な、舞台的構成は、たぶん、映画的興奮との相性は、悪い。 構成や台詞がうまければうまいほど、ココロは、冷えていく。おもしろいんだけどね。

 クリストフ・ヴァルツはタランティーノ「イングロリアス・バスターズ」の、ナチ将校役でブレイク。本作での演技も、素晴らしい。最初はいやなやつっぽい印象なのだが、天性の愛嬌で、好感度あがるあがる。
 人間として、愛らしい。いやなヤツを演じていても、愛らしい。
 ジョディ・フォスターは、残り三人の喜劇的好演技に反逆するように、顔と首の筋を立てて、立てまくっての、ヒステリー演技。顔と首に贅肉がないので、怒る演技だと、顔と首には、筋だらけ皺だらけ。人間として、愛らしくない。ヴァルツが、まるでジェーン・フォンダみたい、と揶揄するのが、おかしい。しかし、ぼくに言わせれば、ジョディ・フォスター、ETみたいだ(笑)。
 筋と皺と演技が、しゃれにならない。細い顔は、若い頃はいいが、ある年齢以上になると、きついものがある。たとえば、コメディー映画に出演して、ひとりだけ、笑いを取れないというような。もともと、ジョディ・フォスターに、コメディ的要素はないのだが、しかしこんな人間喜劇に出て、このデッド・シリアスぶりは、しゃれにならなくない?
 ケイト・ウィンスレットも、コミカルな演技は、そんなにしていないのだが、まあ、許容範囲。ガリガリでないゆえの役得か。ジョン・C・ライリーはジョディ・フォスターに比べれば、水準、でも、まあ、ジョディ・フォスターに比べれば、ですけどね。
 いろいろ悪口言ったけれど、ロマン・ポランスキー、「ゴースト・ライター」に続き、よい。名匠が、余裕の低予算映画を、余裕で演出。その、よさ。

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朝日新聞の言語感覚?

2012/03/25 01:51
 近所のラーメン屋で夕食&夕飲? この店は、一般紙、スポーツ紙を、いくつか、置いている。飲み食いしながら、読む。スポーツ紙は、相変わらずAKBの話題が芸能欄のメインだ。
 で、朝日を読み始めたら、たちまち違和感。ん? なんか、へん? 一面トップの見出しだ。

「政権、再稼動手続きへ/大飯原発 来月から地元説得」

 ナンダナンダ、言葉の使い方に、違和感、おかしいぞ、と。いや、最近、朝日なんて、ほとんど読まないから、コレがフツーの表現なのかもしれないが。
 ようやく、わかった違和感の正体。従来なら、そして他紙なら、今でも、たぶん、
政府、再稼動手続きへ/大飯原発 来月から地元説得」
と、しているはずだろう(たぶんね)。
 この記事の見出しとして、「政権」という主語は、おそらく、日本語として、なじまない。そういう違和感。
 「政権」という言葉を使って、四字熟語を作れ、という問題が出たら、「政権交代」とか「政権末期」とか「政権禅譲」とか、要するに「政権」というコトバの語感は、みな「政局」に結びつくようなところがある。
 「政権」というコトバは、「政府」には比べられないほど、軽く、また、政治状況の、ごくごく一時的な状態を表わすものだと思う。「政権交代」とか「政権末期」と、「政府交代」「政府末期」との、言葉の重みの違いは、そりゃあ、大変なものだと思うよ。
 国が何らかの大きな判断をする場合には、たとえそれが民主党「政権」によるものだとしても、日本語の語感として、主語が「政権」はおかしいだろう。「政府」だろう。それとも、ぼくの言語感覚は、おかしいのか。
 ラーメン屋で、本日(もう、昨日か)の朝日の紙面をめくってみると、他の政治記事でも、
「再稼動 政権前のめり」
「機密費開示 鈍い民主政権」
 と、見出しに「政権」ばかり。これらは従来は「政府」として、使われていたのではないか?
 いや、それは、ぼくの思い違いで、朝日は、昔から「政権」使ってました、という落ちなのかもしれないが(なんせ、記憶力が悪い上に、データに頼らない当ブログの性格からして、それは充分ありうる)。
 記事中にも「野田政権」のコトバあり。これも、「政局」がらみの話の場合は違和感もないが、「政局」がらみでない場合は、従来は?「野田内閣」とか、単に「政府」で、済ませていたのではないか。
 過去さんざん「政権交代」をあおり、民主党政権に対するメディアによる批判は、自民党時代に比べれば、はるかに甘いのが、朝日をはじめとするマスコミ諸君で、民主党擁護が、朝日など左巻きメディアの特技だったのだが。
 何か、微妙に、民主党「政権」から距離を置き始めているのでは、朝日。所詮民主党は「政府」の体をなしていない、「政権」だよ、という、逃げのポーズをとり始めたのか、朝日。
 戦前は自ら先頭に立って軍国主義をあおり、政府の弱腰を挑発し続け、関東大震災時には「朝鮮人暴動」のデマを飛ばして、朝鮮人「虐殺」?の大いなる一端をにない、戦後は戦後で、民主主義をあおり、さらに高じて、ソ連コミュンテルンに媚を売り、中共の毛王朝を絶賛し、北朝鮮の金王朝も絶賛し、さらにまたソ連、中共、北朝鮮の縮刷版である、鳩山=菅=野田「政権」誕生に力を貸した、常に流行にあわせてきた朝日が、とうとう?民主党「政権」に距離を置き始めたアカシか。
 それとも「野田内閣」を「政権」呼ばわりするのは、朝日ら左巻きが「小沢シンパ」である、アカシか。
 うーむ、よく、わからん。

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「シャーロック・ホームズ シャドウゲーム」

2012/03/16 00:56
 本作は、アクションと、ミステリと、コメディの3本立て。そういう構成。
 まずアクション。これが、ここかなり、しばらく、アメリカ映画での流行りの、ショットを短く、激しく刻んだもの。このての、実際には俳優は、そんなに激しいアクションをしていないのに、短く刺激的に編集したアクションシーンには、うんざり。
 娯楽アクションの、最大の魅力は、爽快なスポーツ感にあると思うのだ。あるいは、その次に、情念の衝動、つまり、復讐に燃える、怒りの鉄拳というヤツですね。これが1位、2位。あるいは、ギャグ的な、驚異の体技コメディ、上海雑技団といいますか、ジャッキー・チェンといいますか、もちろん原典は、バスター・キートンだ。
 ところが、秒刻みの編集アクションには、この3つが、全て、当てはまらない(もちろん、これは、本作だけに限らないが)。
 妙に末端神経症的な、刺激重視、緊張感だけがイノチ、という編集。もちろん、緊張感も大事だが、そこにスポーツ感、爽快感は、感じられない。なんか、オタクな編集者が、パソコンで、ぽちぽち、クリクリクリックと、デジタル編集している様子が、目に浮かぶ(偏見)。なんだか、アクションとは違う雰囲気で、編集で、アクション、作っているような。偽造感ありあり。
 しかも、ほとんどのアクション・シーンが、所詮CGだから、CGでアクションみても、何の快感がないんだよねー。CGは、からだを冷やす。からだは、ちっとも、CGアクションでは、興奮しないのだ。
 古いやつだとお思いでしょうが、古いおいらには、CG映像は、芯からは、しーじーられないのだ。

 そしてミステリ。これ、実は、過去に、こういうことがあって、ホームズ、実は、しっかり立ち回っていたんだよね、という、<過去の描写を、視点を変えてみれば、こういう新事実がありました>って、いわゆる<再現映像>の、オンパレード。こういうの、卑怯って、いうんじゃない。結局、これ、後出しじゃんけんミステリじゃん。でも、これは、結構コミカルな演出なので、ミステリというよりは、コメディ・ファクターなのだろう。なら、許す。

 そしてコメディ。この映画は、実は、かなりコメディ部分が、充実している。ぼくは、それなりに楽しみましたけど(というか、アクション部分、ミステリ部分が、かなり卑怯なシステムなので、実は、この映画は、コメディ部分を、楽しむしか、ないところがある)、この映画のコメディは、実は日本人がもっとも苦手とする、まじめな顔して、苦みばしった顔で、さりげなく、笑いを取ると言う、いわゆる英国調ギャグ。
 そこが、たまらなくおかしいんだけど(成功すれば)、そういうシステムに慣れていない日本人は、笑っていいのか、まじめな顔を維持しなければならないのか、かなり戸惑うシチュ。
 みんな、しらっとした顔で、英国紳士然として、ギャグをいう。あるいは、無表情で、いいオヤジがギャグ的動作。たぶん、日本では、こういうギャグは、うけない。キートンより、チャップリンが受ける国だもの(いや、それは、ほかの国もそうなのだろうが)。
 とくに、実際のチェスを途中でやめて、そのあとは、言葉だけでチェスを続けるホームズと、モリアーティ教授。アタマのいいふたりの、頭脳戦。これ、前振りね。そのあと、ホームズとモリアーティは、頭の中で、格闘シーンをシュミレートする。チェスと同じように、オレがこうパンチを浴びせたら、相手はこう出る、どう出る、先の先まで読みあう。実際は、格闘していないふたりが、想像シーンでは、大格闘。
 あまりに馬鹿馬鹿しいのだが、これ、おそらく脚本時点では大爆笑を想定しているのに、演出がまずすぎる。微妙な、繊細なおかしみを、このシーンだけではなく、たぶん全てのシーンで、この監督は、失敗している。
 この監督が、プレストン・スタージェスだったら、エルンスト・ルビッチだったら、あるいは、妥協して、アルフレッド・ヒッチコックだったら、ビリー・ワイルダーだったら、あるいはさらにさらに妥協して、ブレイク・エドワーズだったら、このような、笑うに笑えないコメディには、ならなかっただろう。
 テクニックが進歩しても、笑い、というごくごく基本的なヒューマン・ファクターは、進歩に比例するわけでもないのだった。残念。
 ホームズ役ロバート・ダウニーjrは、健闘しているが、英国紳士には、みえない。シャーロック・ホームズにも、見えない。
 ワトソン役ジュード・ロウは、まじめすぎる。いや、ワトソンはもともとまじめなので不満はないのだが、映画の<コンビもののバランス>からいえば、ここは、往年の、デヴィッド・ニーブンあたりの大人の色気と余裕が欲しいところ。「相棒役」には、「主役」に欠けるだろう「色気」の補填を期待したいところなのだ。ロバート・ダウニーjr&ジュード・ロウの、並びでいえば、ジュード・ロウは、いらない気がする。
 ダウニーjr一枚看板で、充分な気がするのだ。コンビものにする、理由が、ジュード・ロウには、欠けている。モリアーティ教授役の役者も、<悪役の色気>に欠けるところか。
 なお、物語のカギを握るジプシー女性に、ノオミ・ラパス。グッド。
 たまたま、公開中のデヴィッド・フィンチャー「ドラゴン・タトゥーの女」(未見)の、オリジナル本国版ヒロインとして、強烈な印象を残した。本作でも、そのシャープさは、素晴らしい。

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スコセッシ「ヒューゴの不思議な発明」

2012/03/13 03:41
 本作についての批評対談が、今発売中のキネマ旬報に載っていて、そのひとくさりに、思わず爆笑してしまいした。
 いわく「最近の3D映画は、飛び出し方が弱い」。その通り(笑)。
 昔は、たとえば、アイマックスの巨大画面では、雪が降る。その雪が、ほとんど目の前に降るので、思わず、手を伸ばしました。あるいは、ふつうの映画館の3Dでも、たとえば、もっとも、飛び出し力が高いのは、アニメーション、クレジットのスタッフ・キャストの人名が、もっとも、飛び出しておりましたな。これにも、思わず、手を伸ばしました。
 ほんとに、<昔の3D>は、今より、飛び出しておりました(笑)。今は、飛び出し方が、あまりに弱いので、思わず、手を伸ばすこともない。
 なぜなのか。私見によれば、アイマックス3D上映時間は1時間以下、なおかつ、往年の3D映画は、今と違って、B・C級映画だったから、ランニング・タイムは、90分程度。
 ところが、現在の3D映画は、かつての、特別のイヴェント映画、きわもの映画とは違って、メジャー映画に出世してしまい、どれも2時間以上のブロックバスター映画になっている。
 はっきりいって、3D映画は、目によくない。専用メガネも、わずらわしい。さらに、3Dは2Dよりも単純に単価が高いこともあるので、かつては、アイマックスなら1時間以下、一般劇場映画なら90分程度、なるべく時間を減らさねばならない。
 ところが、今では3Dはメガヒットを担わなければならず、きわめてふつうのブロックバスター映画を、目指さねばならない。というわけで、ランニングタイムは、2時間以上となる。
 しかし、長時間の上映時間が、左右の視力の違いによる、体調不良を引き起こさないとも限らない。日本ではそういうことも、あまり想定されないだろうが、訴訟天国の欧米では、そうなった場合、訴訟の嵐だろう。
 かくて「刺激的な、突出した飛び出し方」は、弁護士との話し合いの中?、それなりに抑制させていったのでは、ないか?? 昔は突出していた、クレジットの名前が、今は完全に2Dなのがその証拠??  
 メイン映像が、あまりに長いので、今は、クレジット映像で、3Dを遊ぶ、という余裕がないのだろう。ま、あまりにダサいというセンスの問題もあるのだろうが。

 で、本作の感想だが。何も、3Dじゃなくても、よかったんじゃないの(笑)。
 今回、3Dで見たのだが、おそらく2Dで見ても、同じだったのでは(笑)。それくらい、3Dゆえのお得感が感じられなかった(笑)。飛び出し感もすくなかったし(笑)。
 お話的には、ジョルジュ・メリエスをフィーチャーしたのだが、<今ではまったく一般的メジャーではない、かつてのジャンル・メジャー>を、<メジャー映画>で、見ることの生ぬるさ感といいますか。お子様向け絵本の偉人伝といいますか。
 クリストファー・リーが絶対の安定感、ベン・キングズレーはいいんだけど、ちょっとお人形感が過ぎるというか、そういうのは、あまり感心しないのよね。何か、ハリウッドの、売れ筋メジャー映画のティストがつよすぎて、ぼく的には、かなりの残念感。
 メリエス夫人が、「今でも、お美しい」って、今も、昔も、ぜんぜんお美しくない女優なのが、残念で。というか、サイレント女優で、今の基準でも、お美しいというのは、かなり、レアケースなんだよね。その点では、この女優の選択はリアルなだけに。
 主演の少年と少女は、かなりグッド。でも、フランスを舞台にした映画なのに、全体に全然おフランス感がないのは、どうなの。どう見ても、イギリス感があり、あとで、撮影はイギリスで行っていると聞いて、納得。まあ、アメリカの国際公開メジャーでは、致し方ないか。

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三池崇史「逆転裁判」

2012/03/11 08:27
 三池には、もはや、これっぽっちも、期待していないといいつつ、かつて1990年代の三池に、熱狂していた者にとっては、避けて通れない匂いがした(笑)。いかにも三池らしい、くだらない映画の匂いが(笑)。
 余談だが、一ヶ月ほど前のTV「相棒」の新聞TV欄を見たら、出演者の末席に三池の名が。それこそ90年代の自作には、盛んに?出演していて、プロ俳優顔負けの、演技?を披露していたものだ。
 「相棒」見たら、正味ほんの1分程度の程度の出演、これでTV欄のちいさな枠に出演者として名が載るのは、サギだろう。もっとも「相棒」の出演者は、水谷豊、及川光博を除けばきわめて地味なので、しょうがないか。
 役柄は、相変わらずのヤクザ役。顔のせいか、三池の得意キャラは、チンピラ、やくざに限定されている。最近マンネリの「相棒」も、三池など監督として起用しては、どうか。

 本作は、ゲームが原作(未詳)らしく、登場人物は、おおむね、マンガ的な誇張した扮装と、キャラ設定。
 主役の新米ドジな弁護士に、成宮寛貴。このひと、ふつうのドラマの、ふつうの役のときは、そのアヒル口が気になって、気になって、違和感がありまくるのだが、こういう誇張された役と扮装なら、まったく、気にならない。
 同じく、最初の頃に殺され、その後ユウレイとなってたびたび、法廷に現われる壇れい。
 古典的な美貌を堪能する。なんと、美しい。でも、この美しさは、ユウレイという異常な役だから、その真価を発揮できるので、いかにも舞台栄えする美貌だが、ふつうのドラマのふつうの役だったら、逆にこの美貌が、ドラマを邪魔しかねない、危険物な美貌だろう。「金麦」CMでは、コミカルなキャラで、その美貌を、逃がして、人気が出たと思う。
 彼女の美貌は、お茶の間のTVドラマには、危険物。ぜひとも、映画にもっと出ていただきたい。
 その壇れいの妹役に、こちらは、ぐっと庶民的で、TVにもなじめそうな、桐谷美玲。常に口が半開き美少女
 「当てにならない目撃者」に、谷村美月。コントみたいなアフロヘアに、関西弁。友近と区別がつかない、関西弁のおばちゃんぶりに、びっくり。友近&谷月な、新コンビ展開も期待できる、新キャラ造型に爆笑す。

 ミステリ趣向としては、まあ、マンガみたいなもので、キャラを楽しむべきもの。ラス・ボスは、出てきた瞬間にそれとわかるようなもので、ただ、この、三池組常連が演じるラス・ボスが、キャラ的に、ヨワい。ここは、初期三池組常連で、ここしばらくは、まったくのご無沙汰の、北村一輝当たりで、見たかった。
 そういえば、ベスト・コンビ三船敏郎と、決別した以降の黒沢明映画が、ぐんとつまらなくなったように、北村一輝が出なくなった以降の、三池映画も、グンと、つまらなくなったのだ。

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「傍聞き」:B型にはつらいよ

2012/03/04 22:37
 船橋駅前・ときわ書房のU氏が、<これぞ本屋の店員が「百万部売っても売り足りない!」と叫びたくなるほどの珠玉の一冊だ!>と、絶賛し、そのコメントは、長岡弘樹「傍聞き」(双葉文庫)の帯にも、大きく載っている。しかも、「おすすめ文庫王国2012」国内ミステリー部門ダントツの第1位とのこと。
 うーむ、それほど、すごいのか、と、読んでみた。
 4つの、短い短編を納めている。
 最初の「迷走」。
 うーむ、やはり、面白い。ビター・スイートな快作だ。
 ところが、残りの三作は、みな同じ調子。全ての描写が伏線に奉仕し、無駄な描写が、ない。U氏の言う「一切のムダを排して滋味に富み、研ぎ澄まされた短編ミステリの凄み」なのだが、あまりに無駄がなく、滋味を感じることが、ぼくには、出来ない。
 伏線のみに奉仕して、無駄がないので、余裕とかスキとか遊びとかムダがないと、B型のぼくには?耐えられないのかもしれん(笑)。
 ファースト・インプレッション「迷走」が、面白かったのは、最初ということもあるが、救急車隊員を登場人物とした「迷走」で、クライマックスにいたる、救急車の迷走という、アクション、そしてサスペンスの宙吊りが、あったからだと思う。
 残りの三作は、はい、伏線出し切りました、はい、結末です、と、あまりに余裕がなさ過ぎる印象で。なんとなく、義理マン感(笑)があり、読者であるぼくを、うまくイカせてくれない感じで。
 しかも、「迷走」は、同じ人物が、自らの信念で、三度、同じ発想の、似たような行動を取る。これはありがちなことで、無理がない。
 ところが残り三作「傍聞き」「899」「迷い箱」は、複数の人物が、同じ発想に基く、似たような行動を取る。もちろん、そういう示唆があったからなのだが、同一人物が同じ発想に基く行動を取ることに比べると、別人たちが、同じ発想に基く行動を取ることには、何らかのエクスキューズが必要なのではないか。
 有効、有意義な発想だから、それに基く行動を、簡単に、複数の人たちが、取りうるのだろうか。何らかの「共感」の描写が必要だろう。ある人と、別の人が同じ発想をするにいたる、何か特別なエピソードが。
 しかし、これらの作品は、あまりに無駄がない。こういう「共感の場」は、「ダレ場」?の余裕が必要な?描写なのではないか。
 伏線は、素晴らしい。しかし伏線ばかりで、ダレ場がない、筋肉体質。伏線を張り終わると、即伏線の回収。しかし、豊かなミステリとするには、ミスリード、ミスディレクションも、必要なのではないか。
 必要最小限、4つの短い短編だけで、B型のあっしは、飽きました。われながら、こらえ性がないなあ(笑)。 

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イーストウッド「J・エドガー」

2012/03/02 23:16
 映画監督としてのクリント・イーストウッドの世間の評価には、いつでも戸惑う。
 前期・B級娯楽アクション時代での、イーストウッド評価は、低すぎる。
 後期・アカデミー賞対象圏内の文芸調?骨太ドラマ時代〜今に至る現代は、評価高すぎ。
 この、ハッタリも野心も少ない、つつましやかな映画を控えめに撮るイーストウッドの評価は、その中間あたりこそが、ふさわしい。
 映画作家としては、ことさらに、さかしらな、冒険はしない。しかし、安全無害なノーリスク映画を撮る気もない。リスクは引き受けるが、ハイリターンな映画は、撮らない。
 マッチョな保守野郎とも見られるが、意外にフェミニンで、リベラル。ほのかな変態性を常に漂わせ、明朗なアメリカン・ヒーローとは、常に一線を引く。
 いぶし銀という、お決まりな文句をいうのも気がひけるが、金でなし、銀でなし、まあ、もちろんパールでもない。銅ですか。ま、それは、ともかく。

 J・E・フーヴァーといえば、FBI長官、しかもゲイ、というのが、お決まりだが、この映画のように、男性副官を生涯引き連れていては、そう疑われるのも、無理は、ない。
 しかし、愛人関係にあったのか、どうか、までは、よく知らない。どこまでの関係か、映画は、きわめて、あいまいである。俗に言えば、Aまでだったのか、Bまでなのか、Cまでいったのか、映画は口を濁す。まあ、実在の、あいまいな人間関係なら、その程度の節度、この程度の切り込みは、ともに必要だろう。
 よりはっきり?よりあいまいに?明示されるのは(ここら辺が、イーストウッド特有のつつましさと、同時に大胆さなのだ)、ルーズヴェルト大統領夫人が、男とも女とも婚外セックスを楽しんだ、ということや、キング牧師が、おそらく白人の人妻と、不倫にふけったとか、そういう下ネタを、あわよくば、自分およびFBIの地位向上のために使おうという、下心。
 しかし、公的機関であるFBIの長が、内密に集めた、権力者のスキャンダルを、自分の死後、女性秘書(ナオミ・ワッツ)に処分させるとは。いうのも馬鹿馬鹿しいほどの公私混合。

 結局フーヴァーは、晩年、ベッドから落ちたのか、降りようとして頓死したのか、ベッドの傍らの床に、遺体として発見される。
 これを、ぼくが、たぶん別の検索で読んだ、あるブログ主は、パンツ一丁の裸同然の遺体が、毛布をかけるでもなく放置されている、発見者の黒人メイドの、人種差別主義者フーヴァーへの、意趣返しというか、使用人に嫌われていたからだ、という風にコメントしている。死後に、毛布もかけてもらえないのは、権力者の不幸というのだが。いくら権力やお金があっても、最終的に遺体に毛布もかけてもらえないのでは、やはり、権力や金では買えないものがあるのだ、といいたいらしい。 
 まあ、そういう気持ちはわからないでもないが、

1)最初から黒人メイドが毛布をかけていたら、無様な裸体をさらしたままのフーヴァーの遺体に、感極まって、毛布をかける、フーヴァーの愛人男性の思いが、表現できない。
2)20世紀初頭、まだ、科学的捜査という概念すら普及しなかった時代には、事件の遺留品は手づかみで捜査官が持ち、足跡のあとに、捜査官がどんどん自分の足跡をつけ、平気で現場や証拠を荒らしまわっていたという。これにフーヴァーは怒りを覚え、科学的捜査の第一歩として、<現場や遺体をむやみに動かさな、さわらない>という原則を作っていったという。
2)−1 だから、自らの意思を徹底するには、黒人メイドに、「たとえば、オレが不審な死に方だったら、現場を一切荒らすな。遺体に、毛布をかけるなど、言語道断やでー」などといっていた可能性もある?
2)−2 というより、そうして、科学的捜査を作り上げていった、フーヴァーへの、皮肉のあらわれとか。

ということも、思われる。
 ここら辺のあいまいなままなのが、いかにもイーストウッド。常にあいまいさ、もやもや感、変態性をただよわせている。そういう意味では、イーストウッド的には、J・E・フーヴァーへの近親感は、結構あるのではないか。いやむしろ、イーストウッドの嗜好・志向・思考が生み出したものが本作のJ・E・フーヴァーでは、あるのか。
 アメリカでもっとも有名な権力者を、再評価するでもなく、指弾するでもない、あいまいさ。にもかかわらず、さくさくと、快調に進む映画。快なる映画に、ひそむ、かすかな、不快な残滓。
 ああ、いつものイーストウッド映画だ。

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橋本一「探偵はBARにいる」

2012/02/23 23:15
 主演コンビ、大泉洋、松田龍平も素晴らしい。映画もピリッとシマり、演出も脚本も、フンイキ充分。それなりに評価されるのも、わかる快作だ。新文芸坐にて。
 ただし、
 ミステリとして、決定的な部分で、ずさん?なのだ。
 こんなずさんな、ミステリって、信じられんぞ(笑)。
 明らかに、フンイキ重視、エモーション重視で、最低限の論理がなおざりにされた形だ。
 その、論理崩壊?が、人間ドラマ部分にも影響し、主人公・大泉洋探偵は、いったい、何をしたいの、というところがまったくわからない、グダグダの展開になってしまう。
 浅い部分の演出は快調だが、深い部分の演出がダメだから、ずさんな脚本展開が、ずさんな演出に、被害拡大してしまう。
 というわけで、以下、ネタバレで、本作の、だめな部分を「断罪」?する。





 クライマックス、謎の女コンドウキョウコは、探偵・大泉洋に、札幌の豪華ラウンジ・バー(と、いう言い方が正しいのかどうか、ぼくには、まったく不明なのだが)のママの小雪が、小樽のある喫茶店に現われるから、それを見張れと、依頼する。しかし、それは、邪魔な探偵を札幌から引き離して、ある復讐をするためである。
 探偵・大泉は小樽で張り込みを続けるが、タイム・リミット(小雪の結婚式)に気付き、新たに買ったケータイで、コンドウキョウコに電話。小雪の復讐に気付く。かくて惨劇を防ぐべく、JR函館本線で、札幌に戻る。
 このときは、「なぜか」いつもの「助手」松田龍平の車では、移動していないのだ。

 探偵は、すでに謎の女コンドウキョウコは、バーのマダム・小雪であると確信している。その、小雪の復讐、つまり夫・西田敏行と、夫の娘を死に導いた、石橋蓮司一味に、死の復讐をしたいと、考えている。
 大泉洋探偵は、依頼人を守るのが、探偵の役割だという。
 しかるに、小雪は、ヤクザの親分・石橋蓮司と、その息子(小雪の再婚相手)、悪徳顧問弁護士の三人を殺して、自殺する手はずだ。
 この<惨劇>を<阻止>すべく、列車で駆けつける?大泉洋。しかし、間に合わない。
 大泉洋は、復讐なんて、バカな真似はやめなさいと、阻止したいのか。
 それとも、小雪の心情を汲んで、その復讐を、完遂させたい、というのか。
 たぶん、どちらとも、決められないのではないか。出来れば、復讐を成し遂げさせ、でも、小雪に自殺などさせず、無事、生き延びてもらいたい、と、思っているのではないか。そういう、都合のいい結末を<祈って>札幌に、向かう。しかし、とうてい、タイムリミットには、間に合わない。もともと、それを見越して、小雪は大泉を、小樽に追いやったのだ。

 それまで、ケータイを持たず、固定電話のみで、世間と繋がっていた大泉洋が、<小雪を守る>ために、ケータイを買った。で、あるならば、小雪を助けたいならば、ケータイで、札幌にいる、松田龍平に電話して、自分は、間に合わないが、何とか、小雪を助けてくれ、と、伝ええたはずなのだ。松田龍平は、ぶつぶつ言いながら、それでも、何とか、小雪を救うだろう。そういう男だよ、松田龍平は。頼りになる男なのだ。
 しかし、大泉は、電話しない。わざわざ、そのために、自らのかたくななポリシーを捨ててまで、ケータイを買ったのに、連絡しない。これは、小雪に復讐を、させてあげたい、ということではないか。で、あるならば、その心情は理解しつつ、いや、大泉洋は、悪くない。とりあえず、札幌に、小雪の元に、一足でも早く、駆けつけたいと。しかし、監督、脚本家としては、どうなんだ。
 この、映画では、大泉は、とにかく、<小雪の惨劇>を助けてあげたいという、思い一心で、駆けつけているようにしか、見えない。
 いわゆる、ラスト・ミニッツ・レスキューですな。1900年代初めから、ぎりぎりでヒロインを救う、ヒーローたちの、映画。
 しかし、実は偽りの、ラスト・ミニッツ・レスキュー。駆けつけても、もう遅い、という悔恨、そのハードボイルド。しかし、それなら、また、どん詰まりで、大泉にケータイ、持たせるなよ。
 「助けられた」のに、助けないヒーロー、最悪だろ。
 ようは、小雪に「セーラー服と機関銃」ならぬ「ウェディング・ドレスに拳銃」をさせたかっただけじゃないか。そういう絵が、欲しかったのね。
 しかし、いい大人の男女が結婚するということは、その前に何度も「婚前交渉」があったろう。小雪的にはどうなの、殺したいほどの三人、そのうちの息子に、殺したいほど憎んでいる一味のひとりに、ズコズコバコバコされるっつうのは。たぶん何回も何回も。
 結婚式になる前に殺せばいいのだが、しかし普段は、取り巻きの子分が、何人もいて、三人いっぺんに殺せないということだろう。結婚式ならば、うざい子分はいず、石橋らも無防備、完璧に殺せる。と踏んだ、のかもしれない。しかし、その、ウェディング・ドレスで銃をずきゅん、ずきゅん、な絵的には、映画的なんだけど、その前に、くりかえし繰り返し、ズコズコバコバコ、でしょう。信じられませんがな。

 ケータイ出現後、<空間的距離の乖離によるメロドラマ>は、<ケータイを持っているもの同士>の間では、成立しない、というのが、当ブログの見解である。て、大げさな(笑)。
 しかし、そこで、わざわざ、ケータイをあえて持たない大泉洋に、あえて、どん詰まりに、わざわざケータイを持たせるなら、そこに、それなりの作劇が必要ではないか。何の意味もなく、ケータイを持たせて、札幌−小樽間の、空間的メロを演じさせるな、と。
 その<覚悟>が、演出、脚本、ともに、本作には、欠けていよう。

 しかし、ここで、偏見、いっていいですか(笑)。やはり、<ウェディング・ドレスに拳銃>なら、小雪みたいな<スれた女>のではなく、たとえばだけど、堀北真希とか、多部未華子あたりの、若い女の子だろう。必然性のないヌードもということばがあるが、小雪では、必然性のないウェディング・ドレスだろう。
 って、やっぱり、偏見ですか(笑)。
 しかも、堀北真希や、多部未華子なら、ほんのミリ単位の可能性だけど(笑)、まだ、婚前ズコバコを避けうる可能性も、物語的には、あった(笑)。

◎追記◎ラストのクレジットを見ていたら、高島政伸、って、え、どこに出てたの?
 と、思い起こすと、ああ、あの印象的のな、どこのどいつの新人か、というくらい、インパクトのある悪役かあ。ええっ、あいつが高島政伸ぅぅ? 見違える、快演。
 父・高島忠夫といえば、トコトン悪役が似合わない、善人度160パーの顔。しかし、きつね顔美人・寿美花代と結婚し、生まれた高島兄弟は、ビミョーに、狐顔が、優っていた。
 この高島兄弟、スタア夫婦の息子だから、しかも父・忠夫は、善人度マックス、当然主役ヒーロー側から、出発している。しかし、ぼくは、その狐顔系から、悪人役やったほうが、いいんじゃね、と、前々から思っとりました。
 あんのじょう、この兄弟、二枚目系主役からは、ビミョーに脱落し。
 今回の、振り切った悪役演技(見違えるような、キレぶり)見ると、ああ、兄弟、こっちの方がいいよと。悪役も善人役も味わい深い、平成の沢村宗之助・伊藤雄之助兄弟になってもらいたいものだ。そっちのほうが、断然、いいよ。

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光市母子殺人事件〜事件は、現場にしかない

2012/02/20 23:56
 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 今日、光市母子殺人事件に、判決が下り、被告に死刑が、確定した。
 「事件が起こった時点で、勝者は誰もいない」という、本村洋さんの発言は、きわめて、重い。

 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 事後の、加害者の反省は、現場には、ない。日本の司法では、被告が、事件後、反省を示すと、情状酌量の対象になる。しかし、その、反省は、「現場」には、なかったもの。
 反省なら、猿にも出来る。事後の反省による情状酌量は、軽犯罪、中犯罪なら、いいだろう。しかし、相手は、すでに死んでいる、殺人事件なら、加害者のみ、事後の心情変化が酌量されるのは、おかしいだろう。
 たとえば、軽犯罪なら、加害者も、事後、心境が変化した。被害者も、事後、心境が変化した(「オレも悪かった」という日本的心情パターン)、というわけで、互いの心境変化を勘案して、<喧嘩両成敗>という、日本的発想は、まあ、ありうるだろう。大岡裁判の<三方一両損>ですな。
 しかし、殺人事件では、被害者の、心境変化は、ありえない。
 左翼お得意の平等原則から言えば、明らかに、加害者の事後反省による、加害者の罪の減却は、おかしいだろう。被害者と加害者を、イコールと考えるのは、心苦しいが、仮にイコールだとしても、死んだ被害者は<事後の心境変化>など、ありえない。なのに、なぜ、加害者のみ、<事後の心境変化>を、考慮されなければならないのか、左翼お得意の平等の原則に、反するのではないか。

 同様に、なぜか、計画的な犯罪に比べて、計画的でない、思いつき犯罪のほうが、罪が軽い。これも、<犯罪計画>なんて、加害者の頭の中にしか存在しない。はたして、今、襲ってくる加害者が、計画的に自分を襲っているのか、あるいは、無計画に思いつきのままの気まぐれで、自分を襲ってきているのか、被害者には、まったくわからないことだ。というか、襲われているという事実の前では、そんなこと、どうでもいいことじゃないか、被害者にとっては。
 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 <加害者の頭の中>にしか存在しえない<犯罪計画性>なぞ、現場に、あるのか。
 むしろ、単なる思いつき、気まぐれ、自分勝手な性欲などのせいで、殺されるほうが、罪が重いべきなのでは、ないか。いや、被害者にとって、その差異は、殺されたことに比べれば、どうでもいいことでは、ないのか。

 という論理で言えば、加害者が、母親の自殺、父親の虐待により、精神年齢は18歳以下だった、という<過去の事情><加害者の事情>は、現場に存在するとも、存在していないとも、ぼく的には、どっちにも決められないファクターだ。
 しかし、この場合でも、それは、はたして、<理論>なのか、<事実>なのかも、判別しがたいことだし。さらに、加害者が、その父親を殺したというなら、その情状酌量は、充分、土俵に乗りうるだろう。
 ところが、この事件の被害者の母子は、そういう加害者の、対父親への葛藤、母親への想いなど、まったく関知>していない。
 <被害者が、まったく知りえない、加害者の内的事情>など、現場には、<まったく存在しない>のでは、ないか。被害者と、加害者が平等だというのは、ホントに、心情的に不謹慎なのだが、仮に平等だとして、加害者のみが知りうるコンプレックスが、被害者のまったくあずかり知らぬものであるなら、<それ>は<現場>に、ないのでは、ないか。
 事件は、現場にしか、存在しない、と、仮定すること。
 事件が、加害者と被害者のコラボレーションであると、ドラスティックに仮定すれば、<加害者の内的事情>など、被害者のまったく関知しない、一方的事情なのだから、それは、現場には、存在しないのだ、ということ。
 現場に存在しないことは、一切考慮から、外す、それこそ、シンプルでは、ないか。

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